米久の晩餐

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

鍵なりにあけひろげた二つの大部屋に
べつたり座り込んだ生きものの海。
バットの黄塵と人間くさい流電とのうずまきのなか、
右もひだりも前もうしろも、
顔とシヤツポと鉢巻と裸と怒號と喧騒と、
麥酒(ビール)瓶と徳利と箸とコップと猪口(ちょこ)と、
こげつく牛鍋とぼろぼろな南京豆と、
さうしてこの一切の汗にまみれた熱氣の嵐を統御しながら、
ばねを仕かけて縦横に飛びまはる
おうあの隠れた第六感の眼と耳とを手の平に持つ
銀杏返しの獰猛なアマゾンの群れと。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

室に満ちる玉葱と燐とのにほひを
蠍の逆立つ瑠璃いろの南天から来る寛闊な風が、
程よい頃にさつと吹き拂つて
遠い海のオゾンを皆の團扇(うちわ)に配つてゆく。
わたしは食後に好む濃厚な渋茶の味ひにふけり、
友はいつもの絶品朝日(ノンパレイユアサヒ)に火をつける。
飲みかつ食つてすつかり黙つてゐる。
海鳴りの底にささやく夢幻と現實との交響音。
まあとおさんお久しぶり、そつちは駄目よ、ここへお座んなさい…
おきんさん、時計下のお會計よ…
そこでね、をぢさん、僕の小隊がその鐡橋を…
おいこら、酒はまだか、酒、酒…
米久へ来てそんなに威張っても駄目よ…
まだ、づぶ、わかいの…
ほらあすこへ来てゐるのが何とかいう社會主義の女、随分おとなしいのよ…
ところで棟梁、あつしの方の野郎のことも…
それやおれも知ってる、おれも知ってるがまあ待て…
かんばんは何時…
十一時半よ、まあごゆつくりなさい…
きびきびと暑いね、汗びつしより…
あなた何、お愛想、お一人前の玉にビールの、一圓三十五銭…
おつと大違ひ、一本こんな處にかくれてゐましたね、一圓と八十銭…
まあすみません…はあい、およびはどちら…

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

ぎつしり並べた鍋臺の前を
この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして
正直まつたうの食慾とおしやべりと今歓樂をつくす群衆、
まるで魂の銭湯のやうに
自分の心を平氣でまる裸にする群衆、
かくしてゐた隅隅の暗さまですつかりさらけ出して
のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまに怒る群衆、
人の世の内壁の無限の陰影に花咲かせて
せめて今夜は機嫌よく一ぱいきこしめす群衆、
まつ黒になつてはたらかねばならぬ明日を忘れて
年寄やわかい女房に氣前を見せてどんぶりの財布をはたく群衆、
アマゾンに叱られて小さくなるしかもくりからもんもんの群衆、
出来たての洋服を氣にして四角にロオスをつつく群衆、
群衆、群衆、群衆。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

わたしと友とは有頂天になつて、
いかにも身になる米久の山盛牛肉をほめたたへ、
この剛健な人間の食慾と野獣性とにやみがたい自然の聲をきき、
むしろこの世の機動力に欺かる盲目の一要素を與へたものの深い心を感じ、
又随處に目にふれる純美な人情の一小景に涙ぐみ、
老いたる女中頭の世相に澄み切った言葉ずくなの挨拶にまで
抱かれるやうな又抱くやうな愛をおくり、
この群衆の一員として心からの熱情をかけかまひの無い彼等の頭上に浴びせかけ、
不思議な撥溂の力を心に育みながら静かに座を起つた。
八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

 アメリカ、次いでイギリス、そして憧れの地パリでの生活。明治39年(1906年)から明治42年(1909年)にかけての、決して長いとは言えない欧米滞在から帰国した青年彫刻家にして詩人高村光太郎は、多くの日本の近代知識人同様、その文化的・経済的・社会制度的な遅れを痛感しながら、どうにかしてその「遅れ」を取り戻すべく芸術の上でも、また生活の上でも、もがき苦しんでいました。依然として家父長的で封建的な日本社会とは決別し、近代的自我の確立を求め、暗中模索のなか雑誌「スバル」等に数多くの詩篇を粘り強く発表していた光太郎。そんな折、日本の近代文学史上もっとも有名となる二人の男女の邂逅がありました。言うまでもなく、それは光太郎と智恵子の運命的であると同時に、致命的な出会いのことです。
「この女性が私を信ずる力の強さで私ははじめて自分で自分の本性を見ることが出来た。ここまで来れば結婚の外ない」
(福田清人編、堀江信男著『高村光太郎』、清水書院、1966年、51頁)
と決意するまでに、さほどの時間は要しませんでした。大正3年(1914年)、出会いから2年後の、光太郎の愛した真冬という季節に二人は正式に結婚することになります。そして私たちも教科書でなじみ深いあの詩集、『智恵子抄』が産声をあげるわけです。

僕はあなたをおもふたびに
一ばんぢかに永遠を感じる
僕があり あなたがある
自然はこれに尽きてゐる
-「僕等」

 比喩を介さず、直接的に吐露されている分、光太郎が智恵子に抱いた愛の強烈さを感じさせる1913年に書かれた詩の一節。しかしそれも束の間、「わたしもうぢき駄目になる」(「山麗の二人」)と智恵子が慟哭し、発狂するまでにさほどの時間は二人に残されていませんでした。光太郎の抱いた「永遠」は、永遠ではなかったのです。

それからひと時
昔山顚でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
-「レモン哀歌」

 さて、本題の「米久の晩餐」に入りましょう。大正11年(1922年)に雑誌『明星』に発表されたこの詩篇は、おそらく前年の大正10年(1921年)に執筆されたと推定されています。それは、光太郎にとって、智恵子との出会いから彼女に精神的な危機が訪れ、亡くなるまでの数年の間、つまりちょうど二人の幸福な蜜月期にあたります。詩篇そのものには彼女の影も形も伺えません。しかし、この詩に光太郎のヒューマニズム、人間性に対する強く深い共感があることは疑いようもありません。
 詩の節目節目に同じ詩句を繰り返し用いるルフラン(リフレイン)というフランスでは中世から続く伝統的な詩法、欧米への渡航で初めてその世界に触れ、光太郎が深く感動したボードレールやヴェルレーヌの詩に影響されてのことかはもちろん断言できませんが、彼は非常に効果的にこのルフランを多用することで、詩にひとつのリズムを与えています。言うまでもなく反復されている詩句とは「八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ」のことです。ところで、不思議な文ではないでしょうか、そもそも「八月の夜」が「煮え立つ」わけはないのですから。
 これはどういうことなのでしょう。例えば、それとよく似た表現を光太郎は以前に書き残しています。

夏の夜のうれしさは俄かに翼をひろげ
晴れた瑠璃色の星天にさへ気まぐれきつて躁ぎ出し
何食はぬ顔の下からぺろり、ぺろりと舌を出す
-「夏の夜の食慾」

 「夏の夜のうれしさ」が主語です。それが「舌を出」しています。そうです、両者に共通しているのは、本来煮え立つはずのないものが煮え立ち、舌を出すはずのないものが舌を出している、つまり「八月の夜」や「夏」といったひとつの時間や季節が、物や人のような行為を行っているという点です。典型的な擬人法というものです。
 先の詩句「八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ」という詩句は従って、散文的な言葉に置き換えれば、八月の夜は今米久「の牛鍋のよう」にもうもうと煮え立つ、という感じが近いでしょうか。ここにはそのような省略があると言えます。言い換えるなら、あまりにもこの「牛鍋」から沸き起こる蒸気が凄まじいあまり、八月の夜自体に「牛鍋」が移る形で「もうもうと」煮え立っているのです。それほどあたり一面湯気だらけ、あちらからもこちらからも蒸気が上がっているようです。ですから、ルフランで反復されるこの一文にすでに当時の米久の盛況がどれほど凄まじいものであったのか、実はたいへん克明に描き込まれているのです。

 さて、第一連からルフランでの予告通り、米久の活況ぶりが見事に描写されています。開け広げられた「二つの大部屋」のあちらこちらで牛鍋をつつく人々の空間は、「生きものの海」に変貌しています。ギリシア神話中の逞しい女武人族アマゾンに譬えられる米久の女中たちは、「ばねを仕かけ」られたように俊敏にこの空間を文字通り飛びまわっています。
 第二連はどうでしょう。まず見逃せないのは、「わたしは食後に好む濃厚な渋茶の味ひにふけり、/友はいつもの絶品朝日に火をつける。」という詩句です。つまり、「私」こと光太郎は「米久」に友人と二人で来店し、そしてすでに食事は済んでいるのにもかかわらず、その友人が当時の廉価な葉巻たばこに火をつけるのを眺めながら、自分はのんびり食後のお茶を愉しんでいるのです。こうして私たちにも具体的な詩の状況が分かってきました。
では、二人は食事が終わってしまっているのに、何を呑気にしているのでしょうか。それは「海鳴りの底にささやく夢幻と現實との交響音」に耳を澄ましているのです。実際、ここから夢と現の間を揺曳する世界は、ただ聴覚を頼りにのみ展開されていきます。
それにしても、この口語体で繰り広げられる女中とお客のやりとりは本当に面白い。例えば、この口語体の詩句が始まる二行目「おきんさん、時計下のお会計よ」とは、ある女中がおきんさんと呼ばれる別の女中に投げかけた科白で、「時計下の」お客が会計を催促していることが分かります。また他所からは「おいこら酒はまだか、酒、酒」と悪態をつく酔っ払いの声とそれを「米久へ来てそんなに威張っても駄目よ」と制するその妻らしき人の声が続きます。そしてまだ当時としては珍しかったのでしょうか、世に広まり始めた社会主義に身を投じる女の姿が噂され、また夜更けまで牛鍋をつついていては嫁に叱られるからでしょうか、「かんばんは何時」と閉店時間を気にする客もいます。そしてビール瓶を一本ごまかし、会計を済まそうとする狡賢い客まで。
種々雑多な人々でごった返す米久、その夕べの描写に口語体を採り込み、活写したこの一連は、ところで光太郎が意図的に用いた詩学のひとつだったようです。「詩を書くのに文語の中に逃げ込む事は決してしまいと思つた。どんなに傷だらけでも出来るだけ今日の言葉に近い表現で書かうと思つた。」(高村光太郎「高村光太郎詩集」、岩波文庫、1955年、234頁)と後々回想するように、敢えて光太郎は文語の美文性を排除し、庶民の飾り気のない生のままの話し言葉に寄り添うことで、詩に新たな生命を注ぎ込んだのでした。

 さて、「米久の晩餐」後半の第3連、第4連をざっと眺めてみましょう。強調されているのは「群衆」であることは火を見るより明らかです。あるお客は、「まっ黒になってはたらかねばならぬ明日を忘れて/年寄やわかい女房に気前を見せてどんぶりの財布をはた」いています。「どんぶりの財布」とは草野心平氏の註釈によれば、「職人などの着ける腹掛けの前かくし」(草野心平編『高村光太郎読本』、学習研究社、1959年、118頁)のことであり、この金に糸目をつけぬ男性は、真夏の炎天下、「まっ黒にな」るまで屋外で汗を流す肉体労働者であろうと推測されます。また同じく草野氏の註釈を参考にすると、「くりからもんもん」とは俱利迦羅龍王のことで、その刺青を施した威勢のいい男衆のことです。面白いのは、そんな強面の彼も女武族のアマゾンこと逞しい女中に叱られてはしょんぼり小さくなっていることです。それほど米久の女中は強かった(笑)。
 では、このようにごった返す「米久」に人々はいったい何を求めて寄り集まっていたのか、それは言うまでもなく当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで巷を席巻した牛鍋、それも「米久の山盛牛肉」を求めてのことです。ところで、米久の牛鍋が具体的にどんなものであったのか、それを窺い知るのにたいへん貴重な資料が残されています。当時コメディアンの代表格として、エノケンと並び称されていたロッパこと、古川緑波(1903-1961)のエッセイがそれです。

安直ということになれば、米久の名が出る。米久は、一人前50銭(?)から食わせた、大衆向の牛鍋屋で、而も、その50銭の牛鍋の真ん中には、牛肉が塔の如く盛り上げてあったものである。
そして、各店ともに、大広間にワリ込みで、大勢の客が食ったり、飲んだりしている。その間を、何人かの女中が、サーヴィスして廻る光景が、モノ凄かった。客の座っている前を、皿を持った姐さんが、パッと、またいで行く。うっかりしていると、蹴っとばされそうだった。「牛屋の姐さんみたいに荒っぽい」という形容が、ここから生まれたのである。
(古川緑波『ロッパの悲食記』、ちくま文庫、1995年、118-119頁)

 だいたい映画が20銭、うな重が40銭、資生堂パーラーのアイスクリームが20銭であった言われる時代にあって、牛肉を、それも「塔の如く盛り上げて」いた牛鍋が50銭だったのですから、それはたいへん安かったと言えるでしょう。「牛鍋からすき焼きへ」というタイトルで、関西の「すき焼き」文化と関東の「牛鍋」文化の闘いを語るのが本筋のロッパの記述にあって、とても興味深いのが、「米久」に割かれた記述の大半が、ちょうど光太郎の散文バージョンであるかのようにほとんど同じ内容を語っていることです。大部屋を駆け回るバネを仕掛けられたような荒っぽい女中たち、安価ながらも塔のように山盛りにされた牛鍋とそこに集う市井の人々。当時隆盛を極めたプロレタリア文学に強い関心を抱いていた光太郎は、このような大衆的な牛鍋屋に蝟集する人々の「目にふれる純美な人情の一小景に涙ぐみ」、心をほろりとさせられ、「抱かれるような、抱くような愛」を彼らみなに贈りながら、その場を立ち去って行くのでした。

 毛利志満コラム第2回目の「高村光太郎「米久の晩餐」の世界」はいかがでしたでしょうか。文明開化とともに食用として常用され始めた牛肉とそれに伴う牛鍋の爆発的な流行の一端が少しは垣間見られたとすれば、それは私たちが目論んだ往時の「米久」へのつかの間のタイムスリップも成功したと言えるのかもしれません。いずれにしても、レストラン毛利志満の原点「米久」は滋賀県竜王町山之上の竹中久次、森嶋留蔵兄弟の果敢な行動力と先見の明により、瞬く間に関東、関西を拠点に二十数店舗を構えるまでになりました。そして今回のコラムの背景写真は、京都米久本店の開店風景にあたります。残念ながら昭和の統制経済の影響で存続は断たれましたが、毛利志満はこの二人の高い志と勇猛なフロンティア精神を引き継ぎ、日々お客様に老舗の名に恥じない食と文化を発信し続けられるよう努めております。

(文:森嶋利成 写真:撮影者不明)