近江牛-毛利志満の歴史

歴史と毛利志満のルーツは、二人の兄弟によるフロンティア精神から始まっています。
明治12年、まだ日本人があまり肉食を常用していなかった時代に、滋賀県竜王町山之上出身の竹中久次・森嶋留蔵兄弟が、東京浅草に牛肉卸小売と牛鍋専門店「米久」を開業しました。
これが爆発的にヒットし、数年で26店舗を構えるまでに成長。
「往来、絶えざる浅草通り。御蔵前の定舗の名も高旗の牛肉鍋」と歌われ、高村光太郎により『米久の晩餐』として詩にとりあげられるなど、近江の牛鍋は一世を風靡しました。
その後、米久は昭和の統制経済の影響を受け、存続を絶たれましたが、近江牛の名声を不動のものにした功績は大きかったといえます。
当時は、生きたままの牛の運搬は大仕事であり、牛を追う旅の途中で盗賊に遭うこともありました。それを救ってくれたのが清水次郎長で、以来親交が続いたという逸話も伝えられています。
毛利志満は、先人である、この久次・留蔵兄弟の熱い意志を受け継ぎ、今日まで近江の食文化の発展に努めてまいりました。
当時、山之上から東海道を辿って東京まで牛を曳行するのは十四日間もかかった。
出発時は丸々と肥えた牛でも、途中で痩せたり寒さで死んでしまって、思わぬ損害を被ることもあった。それに十四日間も牛と旅をすることは並大抵の苦労ではなかった。そんな久次に次のようなエピソードがある。久次が五、六頭の牛を連れ、箱根の山に差し掛かったとき、十数人の雲助が山賊に早変わりして有り金を全部盗られそうになった。
ちょうどそこへ清水次郎長が通りかかり久次を助けてくれたのだ。清水の次郎長は、幕末において東海道筋では大侠客で知られていたが彼が若い頃、米屋を営んでいたということもあり久次と急速に親しくなった。博徒家業を止めている次郎長であったが、その威厳は大したもので雲助達が二度と再び久次を襲うようなことがなかったという。
そののち久次は東京へ牛を運ぶときは必ず清水の次郎長のところへ立ち寄り親しく言葉を交わしたと伝えられている。